自分のスタンスを決められずに、まだ身体も心もぐらぐらと揺れている。



杜と買い物に出た帰り道、建ったばかりのマンションの前を通り過ぎようとしたときに、
中から人が飛び出てきて叫んだ。

『地震だ地震!!』

突然あしもとがぐらりと崩れ、慌てて上を見上げて落ちてくるものがないか確認、
そしてただただ、ベビーカーの杜に覆いかぶさることしかできなかった。

一瞬のうちに、たくさんのことを思った。
たくさんのことを思って、そして、死にたくないと思った。

死にたくない。杜を死なせるわけにいかない。



すぐに揺れはおさまった。
杜の手をにぎる自分の手が震えていて、
それが面白かったようで、杜はキャッキャと笑っていた。



あれから11日が過ぎて、
少しずつ『日常』を取り戻しつつある。

けれど、いまだに自分の心がどこにあるのか、どこに向かっているのか

何を信じて、何を疑って、何を求めて、何を与えたらいいのか



『今、マイナスなことを言ってどうする。誰かを責めてどうする』

『とにかくできることをやろう。さがそう』



みんな、そう言いながら、見えない何かを信じて前向きに動いている。

周りのミュージシャン仲間も、チャリティーライブをやったり、募金や寄付を率先してつのったり、傷ついた誰かの為に曲をつくったりしている。

大切で、意味のあることだと思う。

そう思う反面、そのすべてのことに疑問を感じてしまい、
疑問を感じる自分を情けなく思い、
あぁ、これは何も出来ない自分の、周りへの嫉妬だと気付き、
こんな状況で嫉妬している自分が恥ずかしくなる。



今、一番つらいのは、被災した人々。
家族や大切な人、家、物を失った人々。
帰れる家があるのに、避難を余儀なくされている人々。
家にいても、生活がままならない人々。

彼らにわずかにでも希望があるのなら、どんなに良いだろうと思う。
どうか、1日でも笑顔を取り戻してほしいと思う。

そんなことを、わたしは、明かりのつく部屋で、あたたかい紅茶を飲みながら考える。

被災した人々の気持ちは、想像は出来ても、わかることはない。
想像して、涙が出ても、それは一瞬のことで、
次の瞬間には『そろそろ米がなくなるな』などと、考えている。



やらない善よりやる偽善、もっともだと思う。
今、できることはやるべきだと思う。
節電、節水、募金、寄付、やれる限りやって、我慢できる限りはする。

罪悪感を持つ必要がないこともわかる。
被災していないわたしが、どういった態度でいるべきなのかも、なんとなくは、わかる。



ただ、わたしはこわい。
また、いつくるかわからない地震がこわい。
風評と思いながらも、原発事故の影響がこわい。



絶対に杜を失いたくない。



どうか、どうか、亡くなったすべての人の魂が、安らかに荼毘にふされることを。
そして生きているすべての人に、ぬくもりと笑顔を。




自分が何をするべきなのか、わかる日がくるだろうか。